安全で楽しい登山を目指して

87 第8章 登山の運動生理学とトレーニング と感じる速度が乳酸閾値に相当するので,その手前の 速さで歩くと疲労せずに長時間歩ける。心拍数を指 標とする場合には,各人の最高心拍数の75%付近の 速度で歩くとよい。最高心拍数は 208 -(0.7 ×年齢) という式で求める。 (2)下りで起こる疲労 下りでは,上りとは性質の異なる疲労が起こる。下 りでは,脚の筋が引き伸ばされながら筋力を発揮する ため(伸張性収縮),筋の細胞が損傷し,筋力の低下 や筋肉痛が起こる。また,段差の大きな下りでは大き な着地衝撃力を受け,筋を疲労させる。「下りで脚が ガクガクになる」というのは,それらが原因で起こる 典型的な症状である。現場では,歩幅を狭めて下るこ とや,ストックを使うことで対処する。また普段から, 脚筋力を強化するトレーニングや,実際の山で下るト レーニングを積んでおくことも重要である。 (3)エネルギー・水分の不足による疲労 登山は他のスポーツに比べて運動時間が非常に長い ので,エネルギー消費量も脱水量も大きくなる。消費 量に見合った量を行動中に補給しないと,表3に示す ような様々な疲労やトラブルが起こる。それぞれの補 給量の計算方法については次節で述べる。 (4)暑さ・寒さによる疲労 体温が上昇しすぎても低下しすぎても疲労が起こ り,対処を怠ると熱中症や低体温症を引き起こす。衣 類の着脱により体温調節をすることはもとよりだが, 暑い時には積極的に水分を補給する,歩行ペースを落 とす,頻繁に休憩する,などの行動適応を行う。寒い 時には,濡れを防ぎ,エネルギー補給に気を配る。暑 さや寒さから身体を守るためには,体力の優劣より も,このような行動適応のよしあしの方がより重要と なる。 (5)低酸素による疲労 高度が上昇するほど酸素の量(酸素分圧)が低下す るので,疲労しやすくなる。また 2,000m を超えると 急性高山病(高山病)にもかかりやすくなる。表4は 高山病との関連から高度を分類したものである。人間 の身体には個人差があるため,絶対的な基準を示すも のではないが,おおよその目安として 1,500 ~ 2,500m を準高所,2,500 ~ 3,500m を高所,3,500m 以上を高 高所と呼んでいる。 低酸素による疲労や障害を軽減するには,1日目は 準高所,2日目には高所,3日目に高高所というよう に,1日に1段階ずつ高度を上げていくのが原則であ る。しかし,富士山の五合目,立山の室堂,西穂高岳 の千石平,木曽駒ヶ岳の千畳敷,乗鞍岳の畳平のよう に,2,000m を超える高度まで乗り物で一気に到達し, そこから行動を始めるコースもある。このような場合, おおよそ2,500m以上が「高所」と定義され,これ以上では誰に でも高山病が起こりうる。各区分の境界を示す高度は平均値的な数 字であり,個人差が大きいことにも注意する。 (参考文献 1 の p.218 を参照) 表4 人体への影響からみた高度の分類 (諸家の分類をもとに山本まとめ,2016) 高度の分類 身体の反応 超高所 (5,800m 以上) 高峰に登る登山者だけが訪れる高度。この 高度に完全順応することはできず,滞在すれ ば高所衰退が起こる。高高所での順応がうま くいった人だけがこの領域に到達できるので, 高山病の発症はむしろ少ない。しかしこのよ うな人でも,急激に高度を上げたり激しい運 動をしたりすると,肺水腫や脳浮腫など重症 の高山病を起こす場合もある。 高高所 (3,500~ 5,800m ) ヒマラヤやアンデスなどで登山者やトレッ カーがよく訪れる高度。安静時の動脈血酸素 飽和度(SpO2)は90%を下回る。高所登山 の場合はこの高度にベースキャンプを置き, 数週間にわたり滞在する。この高度に行く場 合,徐々に身体を順応させていかないと非常 に危険である。 高 所 (2,500~ 3,500m ) 下界からこの高度まで一日で上がると,高 山病はしばしば起こる。多くの登山者・旅行 者が訪れる高度でもあり,高山病の発症は目 立って多い。肺水腫やそれによる死亡事故も 起こる。高山病の程度は,日中に到達した最 高高度ではなく,睡眠時の高度の影響を大き く受ける。 準高所 (1,500~ 2,500m ) 安静時の動脈血酸素飽和度(SpO2)は 90%を下回らない。普通の人であれば,この 高度では目立った高山病は現れない。しかし 呼吸循環系に障害のある人や,普通の人でも 体調が悪い時(風邪など)には発症すること もある。2,000mを少し超える高度で肺水腫 が起こった例もある。 低 地 (1,500m 以下) 普通の人には高所の影響は現れない 表3 エネルギーや水分が不足した時に起こるトラブル (山本,2016) 疲労するだけにとどまらず,健康を害したり,事故につながるよう なトラブルも数多く起こってくる。 (参考文献 1 の p.120-126,143-149 を参照) エネルギー(特に炭水化物)が欠乏して起こる問題 ・筋を活動させるエネルギーが不足して疲労が起こる ・脳神経系の活動能力も低下して,バランス能力や敏捷性など が低下する ・上と同じ理由で,思考力,判断力,意志力などの精神的な能 力も低下する ・熱産生の能力が低下して,低体温症にかかりやすくなる ・炭水化物の代替エネルギーとして,筋や内臓のタンパク質が 分解されてしまう ・分解されたタンパク質から老廃物が多量に生じ,腎臓に負担 をかける ・その結果として,むくみが生じることもある 水分が欠乏して起こる問題 ・持久力や筋力が低下して,疲労しやすくなる ・体温が上昇し,熱中症にかかりやすくなる ・心拍数が上がり,心臓に負担をかける ・血液の粘性が増して,心筋梗塞や脳梗塞などの引き金となる ・脳や神経系の働きが低下し,認知能力などの精神的な能力が 低下する ・脱水の反動で水分を貯蓄するホルモンが分泌され,むくみの 原因にもなる

RkJQdWJsaXNoZXIy NDU4ODgz