安全で楽しい登山を目指して

122 第3編 登山の技術と知識を身に付けよう ストの無酸素登頂を果たし,無酸素登頂を不可能視し た高所医学の神話を破った。 メスナーは,さらに80(昭和55)年にエベレスト を単独,無酸素,アルパイン・スタイルで登頂に成功。 日本人では禿博信が 81(昭和 56)年 5 月,ダウラギ リⅠ峰(北東コルまでシェルパ同行)を単独無酸素登 頂。禿は翌82(昭和57)年K2,83(昭和58)年エ ベレストと無酸素登頂するが,エベレスト頂上からの 帰途墜死する。96(平成8)年には戸高雅史がK2を 単独無酸素登頂する。 世界5位のマカルー(8,463m)より高い山は,全 て初登頂時には酸素を使って登られていたが,70年 代後半には全て無酸素で登られた。日本人で初めて 8,000m 峰に無酸素登頂したのは,80(昭和 55)年カ ンチェンジュンガ北壁(山学同志会)で,82(昭和 57)年には日本山岳協会隊がK2北稜に,83(昭和 58)年秋にはイエティ同人隊と山学同志会隊がエベレ ストに無酸素で登っている。 また,80年代になるとヒマラヤの冬季登山時代が 到来する。1980(昭和55)年2月,ポーランド隊は エベレストの冬季登頂に成功する。以後,ポーランド の登山家たちは精力的に冬のヒマラヤを狙い,84(昭 和 59)年から 88 年(昭和 63)年にかけてマナスル, ダウラギリⅠ峰,チョー・オユー,カンチェンジュンガ, アンナプルナ,ローツェに成功。日本隊も82(昭和 57)年北大隊がダウラギリⅠ峰,83(昭和58)年カ モシカ同人隊がエベレスト,85(昭和60)年には山 田昇,斉藤安平のペアがマナスル,87(昭和62)年 には八木原圀明の率いる群馬県山岳連盟隊がアンナプ ルナⅠ峰南壁を冬季初登攀し,同隊は引き続き 93(平 成 5)年エベレスト南西壁の冬季初登攀に成功する。 1980 年代には 8,000m 峰を舞台に縦走も行われた。 1984(昭和59)年には,日本山岳会隊(鹿野勝彦隊 長)のカンチェンジュンガ南峰~中央峰,W. クルティ カと J. ククチカのポーランド最強コンビがブロード・ ピーク北峰~中央峰~主峰の三山縦走,E.ロレタン とN.ヨースのスイス・ペアがアンナプルナⅠ東峰~ 中央峰~主峰の大縦走を果たす。そして1989(平成 元)年にはE.ムィスフスキーの率いる旧ソ連隊がカ ンチェンジュンガ西峰~主峰~中央峰~南峰の交差縦 走を完結する。 1990年代に入ると隆盛を誇った日本人の海外登山 も,バブル経済の破綻と共に激減した。プラザ合意に よる円高はあっけなく終焉を迎え,1990(平成 2)年 3月に金融の総量規制が導入されると日本経済は一気 に冷え込んだ。さらに小泉内閣で改正された非正規雇 用労働者の現業解禁も拍車をかけ,日本人若者のヒマ ラヤの夢は奪われていった。 一方では,ヒマラヤのトレッキングはもとより高峰 登山まで旅行業者が絡む旅行の対象となり,ロブ・ホー ルらの商業主義的登山隊がエベレストなどの 8,000m 峰登山を手掛けるようになる。お金持ちの高所遠足登 山が普及し,エベレストに女性タレントが登頂した り,1 日に 200 人も登頂するような時代を迎えるよう になった。1996(平成 8)年 5 月,ロブ・ホールの公 募隊はエベレスト登頂を目指したが,登頂後,難波康 子ら 2 人の顧客と助手のガイド,そして彼自身も生還 できない悲劇が起こり,公募隊の在り方に警鐘を鳴ら した。 こうした商業主義がはびこるヒマラヤ登山にあっ て,山野井泰史のようなフリークライミング全盛時に 育った新たなタイプのアルパイン・クライマーは,ヨ セミテ,アルプス,バフィン島などで困難なソロ・ク ライミングを実践した後,ヒマラヤへ向かい,94(平 成6)年チョー・オユー南西壁新ルートを1ビヴァー ク単独登頂,2000(平成12)年K2南東リブ単独無 酸素登頂,02(平成 14)年ギャチュン・カン北壁第 2 登などに輝かしい記録を遺した。 山田昇,名塚秀二,田辺治らが果たせなかった日本 人初の 8,000m 峰 14 座登頂は,2012(平成 24)年に 竹内洋岳によって達成された。 近年の傾向は,以前のような長期間をかけたピー ク・ハントの登山ではなく,休暇の範囲内で行ける期 間で,ハード・クライムを楽しむ先鋭的なスーパー・ アルピニズムが 6,000m ~ 7,000m 峰で展開されてい る。2009(平成 21)年に日本人として初めて「ピオレー ドール」を受賞したカメット南東壁の平出和也,カラ ンカ北壁の天野和明,佐藤裕介をはじめ馬目弘仁,横 山勝丘,花谷泰広,岡田康,長門敬明,増本亮,宮城 公博,鳴海玄希,青木達哉ら錚々たる先鋭クライマー が新たな課題を求め独創的な登攀を継続している。 8 スポーツクライミングの変遷 スポーツクライミングは,自然の岩場での冒険的な 挑戦にそのルーツを持ち,身体的な可能性を追求して いく過程で,「競技としてのスポーツクライミング」 が確立された。その歴史は新しく,1960 年代に遡る。 この時代にアメリカでクリーン・クライミングが提唱 され,やがて1970年代に入るとハード・フリークラ イミングの波が起こってきた。そのブームは日本にも 伝播し,既存の人工登攀ルートのフリー化が行われる ようになっていった。 1979(昭和 54)年,ヨセミテを訪れた戸田直樹は, 当地で受けたフリークライミングの理念・技術を日本 に持ち帰った。翌 80(昭和 55)年 5 月,戸田らは谷 川岳一ノ倉沢コップ状正面壁雲表ルートをフリー化。

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