安全で楽しい登山を目指して

121 第11章 登山の歴史と文学 て,その第 1 号外貨は福岡大学ヒマラヤ探査隊(ガウ リシャンカール,メンルンツェ偵察)に与えられた。 1958(昭和 33)年には深田久弥らが「ヒマラヤ 30 万円説」の遠征をジュガール・ヒマラヤで実践し,社 会人登山者にもヒマラヤの夢を与えてくれた。全岳連 では 1960(昭和 35)年~ 62 年にかけてビッグ・ホワ イト・ピーク(レンポ・ガン)に挑み,1962(昭和 37)年,高橋照の率いる第 3 次隊が初登頂を成す。 戦後,ヒマラヤを巡る政治情勢が大きく変化する中 で,8,000m 峰への新たな道が開かれると各国が国の 威信をかけてジャイアント(巨峰)の初登頂を競っ た。50(昭和 25)年のアンナプルナⅠ峰(フランス隊) を皮切りに,53(昭和 28)年,エベレスト(英国隊), ナンガ・パルバット(ドイツ隊),54(昭和29)年, K2(イタリア隊),チョー・オユー(オーストリア隊), 55(昭和 30)年,カンチェンジュンガ(英国隊),マ カルー(フランス隊),56(昭和 31)年,マナスル(日 本隊),ローツェ(スイス隊),ガッシャーブルムⅡ峰 (オーストリア隊),57(昭和 32)年,ブロード・ピー ク(オーストリア隊),58(昭和 33)年,ガッシャー ブルムⅠ峰(アメリカ隊),60(昭和 35)年,ダウラ ギリⅠ峰(スイス隊)と続き,64(昭和 39)年にシシャ パンマ(中国隊)が登られてヒマラヤ・オリンピック と称される時代は終焉する。 1964(昭和39)年,海外渡航が自由化されると多 くの登山隊が,堰を切ったようにヒマラヤへ繰り出し た。然し,皮肉なことに海外渡航が自由化された翌年 3月,ネパール政府は突然ネパール・ヒマラヤの登山 禁止を発表した。中印紛争,外国登山隊による越境問 題等による禁止措置であった。 これによって登山者の矛先は,アルプスやアラス カ,アンデス,ヒンズークシュなどに向けざるを得な くなった。 大学山岳部系の登山者がヒマラヤへ目を向けたのに 対して,国内の岩と氷で腕を磨いた社会人系クライ マーは,アルプスの岩壁を目指した。1963(昭和 38) 年の芳野満彦,大倉大八によるアイガー北壁挑戦を皮 切りに,65(昭和40)年には多くのクライマーがア ルプス三大北壁に殺到。マッターホルン,アイガーが 登られ,66(昭和41)年にはグランド・ジョラス北 壁も登られた。67(昭和42)年2月には山学同志会 の小西政継らがマッターホルン北壁冬季第3登に成 功。それから10年後,長谷川恒男は,マッターホル ン(77 年),アイガー(78 年),グランド・ジョラス(79 年)と三大北壁の冬季単独初登攀に成功,冬季単独三 冠王となる。 ネパール・ヒマラヤは,1969(昭和44)年から再 解禁され,大阪万博が開催された 1970(昭和 45)年 には日本隊によるエベレスト登頂が果たされ,第 2 次 ヒマラヤン・ブームが到来する。 70年代に入るとヒマラヤではより困難を求めて巨 峰のヴァリエ―ション・ルート時代(鉄の時代)を迎 える。1970(昭和45)年アンナプルナⅠ峰南壁(英 国隊),ナンガ・パルバット南壁(ドイツ隊),71(昭 和 46)年マカルー西稜(フランス隊),マナスル北西 稜(日本隊),72(昭和 47)年マナスル南西壁(オー ストリア隊)などが登られる。69(昭和44)年の再 解禁から衆目を集めたエベレスト南西壁は幾多の登山 隊を退けていたが,75(昭和50)年秋C.ボニント ンの率いる英国隊によって陥落した。同じ頃,マカルー 南壁もユーゴ隊によって登られた。翌76(昭和51) 年にはナンガ・パルバット南西稜がオーストリア隊に よって初登攀され,79(昭和54)年にはユーゴ隊が エベレスト西稜をロー・ラからダイレクトに登った。 この時期は,1974(昭和49)年にパキスタンのカ ラコルム,79(昭和54)年秋にインド・ガルワール のガンゴトリ,80(昭和55)年に中国領ヒマラヤ, 83(昭和 58)年にブータン・ヒマラヤ,84(昭和 59) 年に東部カラコルムなどが相次いでオープンされ,そ れまで政治的理由で入域できなかった山々が開放され た。その為,「鉄の時代」に逆行するかのような 7,000m 峰の初登頂ラッシュも迎えた。特に驚異的な高度経済 成長の後押しもあって,日本隊が諸外国隊を席巻し た。因みに70年~90年代の20年間で日本隊の7,000m 峰初登頂は 61 座を数える。 1974(昭和49)年,日本女性隊がマナスルに挑 み,内田昌子,中世古直子,森美枝子が日本女性初の 8,000m 峰サミッターの栄光を手に入れた。翌 75(昭 和50)年春には田部井淳子がエベレストの女性初登 頂者となる。 一方,70 年代はビッグ・ウォール登山と無酸素登山, アルパイン・スタイルの登山も台頭する。 1971(昭和46)年のサラグラール西壁(静岡登攀 クラブ),73(昭和 48)年ヒリシャンカ南東壁(東京 露草登高会),76(昭和51)年チャンガバン南西壁 (グループ・ド・コルデ他),ジャヌー北壁(山学同志 会),ワンドイ南峰南壁・チャクララフ東峰南壁・イェ ルパハー北西壁(岡山クライマースクラブ),79(昭 和 54)年ラトックⅠ峰南壁(京都カラコラムクラブ), 同Ⅲ峰南東壁(広島山の会)などが登られた。 1975(昭和 50)年にラインホルト・メスナーとペー ター・ハーベラーのペアがアルプスを登るようなスタ イルで一気呵成にガッシャーブルムⅠ峰を登り,極地 (包囲)法が主流だったヒマラヤ登山に新風を吹き込 んだ。 次いでこのペアは,78(昭和53)年5月にエベレ

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