安全で楽しい登山を目指して

120 第3編 登山の技術と知識を身に付けよう 7 海外登山 世界の屋根,ヒマラヤへの挑戦は,近代アルピニズ ムを生んだイギリス人を中心に,18世紀頃から始ま り,1921(大正 10)年にはエベレストに G.L. マロリー らの第 1 次登山隊が挑戦した。 因みに人類初の 7,000m 峰登山は,1907(明治 40)年, 英国のT.G.ロングスタッフのインド・ガルワールヒ マラヤのトリスル(7,120m)初登頂である。 登山を目的にヒマラヤに最初に挑んだ日本人は鹿 子木員信だ。彼は,1919(大正 8)年にシッキムに入 り,北部シッキムやタルン氷河を踏査し,カブール (4,810m)に登頂した。 日本最初の組織的な海外遠征隊は,1925(大正 14) 年に槇有恒隊長らが初登頂したカナディアン・ロッ キーのアルバータ(3,619m)登山。 一方,大正末期から昭和初期にかけて日本人がアル プスで充実した登山記録を遺している。1928(昭和 3) 年,浦松佐美太郎がヴェッターホルン南西稜初登攀, 翌 29(昭和 4)年,各務良幸はモン・モディ東南壁に カガミ・ルートを拓く。 北アの積雪期縦走などで実績を重ねた立教大学の堀 田弥一らは,1936(昭和11)年,インド・ガルワー ルに聳えるナンダ・コット(6,861m)に向かい,見 事初登頂の快挙を成す。戦前にヒマラヤに向かった我 が国の登山隊は,このナンダ・コットが唯一無二で, 我が国ヒマラヤ登山の嚆矢とされる。 第 2 次世界大戦後,ヒマラヤの北と南では大きな政 治情勢の変化がみられた。北側のチベットは,共産革 命が成った中国に併合されて,禁断の地となった。南 では英領インドがインドと東西パキスタンに分離独立 し,永らく鎖国を続けてきたネパール王国が開国に踏 み切った。 1949(昭和24)年,ネパールが開国すると英国の H.W.ティルマンは,逸早く入国してランタン,ジュ ガール,ガネッシュの各山群を探った。同年6月, R.ディテールの率いるスイス隊は,シッキムとの国 境に聳えるピラッミド・ピーク(パティバラ)北東峰 に登頂。 翌50(昭和25)年にはモーリス・エルゾークの率 いるフランス隊がアンナプルナⅠ峰に登頂し,人類初 の 8,000m 峰登頂を成す。 1951(昭和26)年,英国はE.シプトンの率いる 偵察隊をエベレストに派遣し,クーンブ氷河からの登 路を見出す。然しながら 52(昭和 27)年の登山許可は, スイス隊に与えられてしまう。スイス隊は,春,秋の 2シーズン連続して挑戦して頂上に肉薄するも「大空 の女神」の微笑は得られず,初登頂の栄誉は,翌 53(昭 和 28)年この山の先駆者である英国隊(J. ハント隊長) が手にすることになる。 この頃,日本でも京都大学学士山岳会(AACK) の今西錦司が「マナスルをやろう」と提唱。しかし, 連合軍の占領下にあった日本では,登山許可を得よう にもネパールとの外交ルートすらなかった。 1952(昭和 27)年 1 月,AACK の西堀栄三郎はイ ンド学術会議出席の機にネパール入りを果たし,マナ スルの登山許可申請を行う。そして 5 月には登山許可 が交付された。その後,この計画は日本山岳会に移譲 され,全日本規模で推進されることになった。 日本山岳会ではヒマラヤ委員会(槇有恒委員長)を 立ち上げ,その年の秋に偵察隊(今西錦司隊長)を派 遣することにした。偵察隊は,アンナプルナⅣ峰を試 登した後,マナスルの北東面に廻り,可能性のあるルー トを見出した。 1953(昭和28)年,三田幸夫を隊長とする本隊を 派遣。偵察隊の発見したルートを踏襲してアタックし たが 7,500m で断念。 翌 54(昭和 29)年の第 2 次隊(堀田弥一隊長)は, 山麓の集落,サマの住民の反対に遭ってマナスルを断 念。ガネッシュ・ヒマールに転進を余儀なくされ,帰 国した。 1956(昭和31)年の第3次隊は,隊長に槇有恒を迎え, 背水の陣で臨んだ。登山は首尾よく,5月9日に第1 次隊の今西寿雄,ギャルツェン・ノルブが初登頂。11 日には第 2 次隊の加藤喜一郎と日下田実も登頂した。 マナスル以後のヒマラヤ登山は単一大学の山岳会 に引き継がれ,1958(昭和 33)年京大のチョゴリザ, 60(昭和 35)年慶大のヒマルチュリ,京大のノシャッ ク,同志社大のアピ,62(昭和37)年北大のチャム ラン,京大のサルトロ・カンリ,63(昭和38)年同 志社大のサイパルなどの初登頂を成す。 当時は,厳しい外貨割当の制限があり,海外の山に 行くことは実に至難の業であった。ヒマラヤ登山の外 貨は,スポーツ外貨枠か学術研究枠などしかなかった。 ヒマラヤへ行くには,まずこの外貨獲得が最大の難関 であり,「日本を出れば9割成功」と言わしめた所以 である。当時,日本体育協会(現日本スポーツ協会) から登山隊に割当てられた外貨は 1 万ドル程度であっ たから,その争奪戦は熾烈を極めた。その上,この外 貨の運用は日本山岳会が差配していて日本山岳会員以 外は使えなかった。 1959(昭和 34)年になってようやく文部省(当時) が大蔵省(当時)と協議して,全日本山岳連盟(全岳連) にも年 1 隊の登山隊に外貨を割当ててくれ,全岳連加 盟団体にもヒマラヤの道が開かれた。全岳連では「海 外登山審議会」を設置して,割当外貨を公正に運用し

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