安全で楽しい登山を目指して

118 第3編 登山の技術と知識を身に付けよう イマーたちはより厳しい対象を求めて冬季登攀という 日本独自の登攀形式を実践していたのである。 堀田弥一ら立教大学山岳部は,1930(昭和 5)年 3 月から32(昭和7)年1月にかけて唐松岳~白馬岳, 槍ヶ岳~奥穂高岳など主として積雪期の縦走登山に実 力を発揮し,それらは 1936(昭和 11)年のナンダ・コッ ト初登頂に結実する。 他にも明大,学習院大,関西学院大,とりわけ北大 などが優れた積雪期縦走を果たす。 これら大学山岳部が活躍する中,社会人登山者の加 藤文太郎はたった一人で,1931(昭和 6)年 1 月,薬 師岳~三俣蓮華岳~烏帽子岳,32(昭和7)年2月, 槍ケ岳~笠ケ岳往復,33(昭和 8)年 3 月,槍ヶ岳~ 前穂高岳等の縦走を完遂するなど大学山岳部の成果に 勝るとも劣らない業績を印した。加藤は,1936(昭和 11)年 1 月,槍ヶ岳北鎌尾根に死す。 5 社会人山岳会と登山の大衆化 上越の谷川岳は 2,000m にも満たぬ山であるが,穂 高,剱と並んで本格的クライミングの発祥の地である。 クライミングのエポックメイキング的な出来事は,そ のほとんどが,他の山域に先駆けて一ノ倉沢等で行わ れた。 この谷川岳を「近くてよい山なり」と世に紹介した のは慶應の大島亮吉である。1926(大正 15)年 10 月, 成蹊高校の成瀬岩雄と奥利根に赴き,上州武尊山から 谷川岳を遠望して,東面の岩壁群に驚く。翌27(昭和2) 年には一ノ倉沢,幽ノ沢を試登し,マチガ沢を完登す る。しかし,大島は翌 28(昭和 3)年 3 月に前穂高岳 北尾根に逝き,大島の遺志は小川登喜男らに引き継が れる。 1930(昭和 5)年 7 月,青山学院の小島隼太郎(小 島烏水の長男)らは谷川岳一ノ倉沢二ノ沢左俣を初登 攀。同 7 月には小川登喜男が一ノ倉沢三ルンゼを初登 攀。 小川は,翌 31(昭和 6)年 7 月は幽ノ沢を初登。32(昭 和 7)年 2 月には東尾根から一ノ倉岳へ縦走して一ノ 倉尾根を下降。 1931(昭和 6)年,清水トンネルが全通すると,谷 川岳は夜行日帰り可能な山となった。こうした中,谷 川岳の岩壁に邁進したのは,登歩渓流会をはじめとす る首都圏の社会人山岳会であった。 登歩渓流会の山口清秀は,32(昭和 7)年,一ノ倉 沢奥壁及び二ノ沢左俣を単独初登攀。同じく会を主導 した杉本光作は,34(昭和9)年に幽ノ沢左俣滝沢, 一ノ倉沢二ノ沢本谷,二ノ沢右俣などを初登。 登歩渓流会と云えば中学生で入会した松濤明は, 1939(昭和 14)年 12 月,17 歳で北穂滝谷第 1 尾根の 積雪期初登を果たすなど若くして先鋭的な登攀を実践 するも 1949(昭和 24)年 1 月,有元克己と槍ヶ岳北 鎌尾根を縦走中に遭難し,名著『風雪のビバーク』を 遺す。 当時のクライマーにとって谷川岳一ノ倉沢の至上の 岩壁だった滝沢下部は,1939(昭和14)年9月,慶 應の平田恭助と北アのガイド浅川勇夫によって初登さ れた。その平田は翌 40(昭和 15)年 5 月に一ノ倉沢 で遭難。「近くてよい山」ということで登山者が押し 掛けるようになると遭難事故も急増し,この頃より「魔 の山」と呼ばれるようになる。 1945(昭和20)年8月に終戦を迎えると,まもな く『山と渓谷』(1946 年復刊)や『岳人』(1947 年創刊) が相次いで出版され,戦後の焼き野原に登山文化が蠢 き出す。戦前(1942 年 3 月),屏風岩 1 ルンゼの冬季 初登を果たした新村正一(関西登高会)らは 1947(昭 和 22)年 3 月,剱岳から槍ヶ岳へ縦走する快挙を成し, 同年 7 月には石岡繁雄らが屏風岩に挑む。また,同年 12 月から 48(昭和 23)年 1 月にかけて小島六郎らの 早大隊は,日高山脈のペテガリ岳東尾根を初登するな ど登山は復活する。 そして 1950(昭和 25)年に朝鮮戦争が勃発し,い わゆる特需の恩恵を受ける。これによって戦後復興が 加速され,人々の暮らしには余裕が生まれ,山にも行 きやすくなってきた。 1956(昭和 31)年,「経済白書」は「戦後」の終焉 を告げ,同年 2 月には第 7 回冬季五輪で猪谷千春が男 子回転で銀メダルを獲得,5月には日本隊のマナスル 初登頂の快挙,とスポーツでも世界に伍すようになっ た。マナスル初登頂の記録映画『マナスルに立つ』は 全国で上映され,どの映画館も長蛇の列を作る盛況ぶ りであった。また,井上靖の小説『氷壁』が新聞連載 され,スペンサー・トレーシーの『山』の封切りなど が拍車をかけ,空前の大衆登山ブームが起こる。この 登山ブームは,市井の社会人や職域の山岳会を雨後の 筍のように創設させ,「3 人寄れば山岳会」と云われた。 これらの山岳会の多くは他会員との山行を禁じ,セク ト的な閉鎖性が顕著であった。 このような時代背景の元,第 2 次 RCC が誕生する。 戦中,一ノ倉沢に通い詰めた庶民派クライマーの奥山 章は,セクトに捉われず,自由にアルピニズムを追求 できる同人的な機構を夢想し,首都圏の有力山岳会 のリーダーたちに働きかけ,1958(昭和 33)年 1 月, 第 2 次 RCC を発足させた。1924(大正 13)年に藤木 九三らが創立したRCCの前衛精神を継承するとして, その名を第2次RCCとした。古川純一(ベルニナ山 岳会),芳野満彦(アルムクラブ),吉尾弘(朝霧山岳 会),松本龍雄(雲表倶楽部)ら一匹狼的な現役クラ

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