JARCLIVE8

JARC LIVE 5 不況になるほど強い専門学校の底力 林 この度の新型コロナウイルス感染症は宿泊業界に多 大な損害を与えました。特に首都圏では法人宴会や結婚 式の日延べやキャンセルが相次ぎ、宿泊においても稼働率 が 10 ~ 30%台という低空路線が継続しています。コロナ 以前は人手不足を課題としていましたが、一転して余剰 人員が課題になるなど、状況が真逆に転じています。感 染症予防として非接触が消費者側から求められ、対面を 主力としていたホテルサービスの在り方も大幅に変えてい かなくてはなりません。私自身は非接触イコール非対面とい う考えではなく、最先端のテクノロジーを下支えに、よりヒュー マニズムなサービスの提供が必要であると考えます。今回 は日本を代表するホテル専門学校、そして後発ながら新 たな視点でホテル学科を設置した専門学校を指揮する皆 様にご参集いただき、これからのホテリエの在り方につい て大いにご意見をお聞きできればと思います。当協会の会 報誌「JARC LIVE」は会員をはじめ、行政機関や観光・ 宿泊関連の協会団体ならびに全国の3,000施設以上のホ テルや旅館へ 5000 部をご提供しています。宿泊業界に おいては十分に周知されている専門学校ですが、はじめ に各校の歴史などをお聞かせください。はじめに最も歴史 のあるYMCA小畑校長からお願いします。 小畑 85 年前の 1935 年に国際ホテル学校として誕生し ました。1940 年予定していたまぼろしの東京オリンピック 開催に向け、世界各国からのゲストを迎えるプロフェッショ ナルを育成するために日本で初めてのホテル学校としてス タートしました。当時はキリスト教牧師による英語学校の 要素が強く、英語を学んで帝国ホテルに就職する学生が 多かったと聞いております。85 年前のことですが入学倍 率は5 倍ほどあり初年度は130 人が入学しました。第二 次世界大戦により一時募集停止となりましたが 1946 年に 再開し、1964 年に開催された東京オリンピックのときには 選手村食堂ピレスハウスのサービスを担当。翌年 1965 年 には1年制のホテル専攻科を新設、1970 年には国際ホテ ル学校として海外ホテル研修を開始し、1979 年には専修 学校法制定と同時に専修学校許可を得ました。その後、 長野オリンピックのときには選手村へ実習生を派遣するな ど国際的な舞台で実務経験を積んでいます。 林 85 年前に開校されているとはおどろきました。これま でに卒業された人数はどのくらいいらっしゃるのですか。 小畑 卒業生は1 万 2000 人におよびます。不思議なこ とですが 85 年前も今も、入学者数は1学年で 130 人ほ どです。途中、100 人を切ったりすることもありましたが、 今は85 年前とほぼ同じ数字となっています。学校の規模 的に130 人ほどがちょうど良いこともありますが、歴史は繰 り返されていることを実感します。開校後の第二次世界 大戦と今、世界的規模で起きている新型コロナウイルス 感染症にともなうパンデミックとは内容こそ異なるものの、こ の先の専門学校運営において参考になると考えています。 また85 年という歴史から親子 3 代でYMCAに通われて いる方もいます。傾向として家が旅館や駅前ホテルの経 営者のご子息が多いことから、“先代がお世話になったか ら”と足を運ばれています。中には4代目というケースやホ テルや旅館を経営されているご子息の場合は、大学を卒 業されてから実務的な経験を積むために入学されるケー スが多々あります。いずれにしても改めて歴史の重みを感 じるとともに今日まで受け継いでいただいた諸先輩たちに 感謝するとともに、これからの時代のホテリエ育成の在り 方を常に模索している次第です。 林 3 代、4代に引き継がれていくということはとても素晴 らしいことです。ところで、おそらくホテル業界では知らな い人がいらっしゃらない日本ホテルスクールさんの歴史や 今日至るまでの経緯はいかがですか。 石塚 1971 年 10月、プリンスホテル㈱が中堅幹部育成 を目指してプリンスホテルスクールを創立、翌年 4月新入 生 160 名を迎えて開校しました。1976 年、当時の運輸 省監督下で財団法人日本ホテル教育センターを設立、財 団立の日本ホテルスクールと名称変更、1987 年東京都の 認可を受けて専門学校日本ホテルスクールへ、更に2009 年学校法人日本ホテル学院を設立、学校法人立の専門 学校日本ホテルスクールとなりました。1997 年に1000 名 規模となり、それ以来若干の増減を経ながら、現在在校

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