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JARC LIVE 19 は甚大の被害を受け、家屋は大破、再興の光が見えな い状態だった。兄は弟を心配し日光へ帰るしかないと助言 したところ、こう言った。「いやです。平和な宮ノ下に来て、 今ホテルが破壊したから生まれ故郷に帰るなぞは思いもよ らず、正造の男が立ちません。この土地を原形以上に復 興させなければ死すとも帰りません(原文をアレンジしてい ます)」と。“ 正造の男が立ちません ”、この言葉には何 としてでも再建するという意思を固めた経営者の思いが込 められている。 関東大震災、第二次世界大戦という危機に見舞われ ながらも、現在のホテルサービスの礎を築いていった。富 士屋ホテル自動車の創設、仙石ゴルフコースの開場など、 ホテル経営者として型破りな精神力と推進力、忍耐力で 今もなお、華やかに受け継がれている実績を残してきた。 約 10 年間の米軍接収を耐え抜いた 4 代目堅吉 4 代目社長 山口堅吉氏は婿として富士屋ホテルの経 営に携わった。第二次世界大戦の終戦、接収、ホテル 経営の移管などの舵取りを行ない、温和で堅実な性格で 3 代目正造が築いた富士屋ホテルの経営を維持した。接 収は1945(昭和 20)年 10月20日~ 1954(昭和 29)年 7月6日に一般営業が再開されるまで続いた。 約 10 年にもおよぶ月日をまさに蝋燭屋を営む商家で育っ た “ 灯を絶やすべからず ”という奥底に秘めた強い精神力 があったからこそ、富士屋ホテルの経営が維持できたのだ ろう。 その後、昭和 41 年に山口家から国際興業グループへ と経営権のバトンが渡された。至誠を社是とする富士屋 ホテル経営者の思いを受け継ぎ、平成 30 年 4月からの 約 2 年間の休館を決断し、耐震補強工事へ踏み切った のだった。「オーナーの決断がなければこの日はなかった。 宮ノ下富士屋ホテルの新たな歴史を刻む一歩を踏み出す 牧畜業への思いから観光業に転換した初代創業者 富士屋ホテルの創業は1878(明治11)年7月15日、 一代幕府を築いてきた徳川家が大政奉還を行ない、時代 が幕開けした1868 年の 10 年後であった。廃藩置県や 新橋、横浜間の鉄道開業、板垣退助らによる言論の自 由など、今の日本の基礎となる自由民権運動など、日本 は近代国家を目指していた。貿易も活発化し、要人を海 外から迎え海外との国交を活性化するためのホテルが必 要であるとされ、ある意味、国策としてホテルの存在意義、 必要性が高まった時代だった。 創業者 山口仙之助は明治 4 年、20 歳で米国へ渡り、 日本の将来において牧畜業が有益であると信じ、蓄えた 資金で7 頭の種牛を購入して帰国した。その後、慶應 義塾に入学し、福沢諭吉に国際観光の重要性を説かれ、 牛を売却した資金で東京から近距離にあること、温泉がわ き、外国人の憧憬の的が箱根・富士であることから箱根・ 宮ノ下にホテルを開業した。 ホテルの開業に留まることなく、箱根の活性化に向け た道路の整備、火力・水力発電など地域住民のために 環境整備を施した。創業 500 年の奈良屋旅館とともに 発展するよう富士屋ホテルを外国人専用とする協定を締 結するなど、常に真摯に箱根の観光振興のために「至誠」 の精神を持って挑んだ。 “正造の男が立ちません”苦難に立ち向かった 3 代目 3 代目社長 山口正造氏は金谷ホテル創業者の次男で あった。18 歳で渡米し、その後英国に渡りホテルのボー イなどをして7 年後に帰国した。正造氏の豪快な男気は 同氏の追悼録に寄せられた金谷ホテルの社長である兄の 寄稿文からも伺える。 大正 12 年 9月に起きた関東大震災により富士屋ホテル 数々のパーティーが開催されたカスケードルーム 富士屋ホテル創業当時の外観 今なお、お客様をお迎えする本館 「フラワーパレス」として親しまれる花御殿 創業者 山口仙之助

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